熱力学編 第3章

断熱仕切り

仕切りが断熱的である場合、終状態のエントロピーが一意に決まらない、即ち、終状態は一意的には決まらない。

断熱仕切りの終状態は、仕切りの動きに依存する

前章の問題を変更し、仕切りを「熱を通さないもの」にした場合を考える。即ち、右図のように、仕切りを固定した状態で、それぞれの容器(部屋)の温度・体積を および にする。その後、仕切りの固定を外して自由に動けるようにすると、仕切りは勝手に動き、最終的にどこかで止まる。その時の平衡状態を知りたい、という問題である。右図の という表記は、仕切りの位置(だけ)が自由に変化できることを表す。

未知数は、終状態における各部屋の温度・体積の4つである: (終状態であることを で表す)。これらを、始状態 (と状態方程式などの気体の性質)から導きたいわけである。前章の場合と違って、仕切りが熱を通さないので、両方の容器の温度が一致するという条件 が成り立たなくなる。そのため、未知数4に対して、条件が3つ(両容器の圧力の一致、エネルギー和の保存、体積和の保存)しかないように見える。一方で、まだ未知の条件があって終状態が一意的に決まる可能性もある。

結論から言うと、実験により、終状態は一意的に決まらないことが知られている。特に、以下が成り立つ: 仕切りが非常に重い場合、仕切りが長時間に振動しながらゆっくりと減衰していく。軽い場合は、素早く動いてすぐに平衡状態になる。たどり着く平衡状態は、両者で異なる。

この章の目的は、この性質()を理解することである。そのために使えそうな、容器を変形する速度に関係する法則として、プランクの原理が実験的に知られている。即ち、1つの断熱容器に対して以下が成り立つ: 変形サイクルとは、容器を変形させた後で元の形状に戻す操作である。例えば、右図のような容器で、ピストンを動かしてから元の位置に戻すと、その温度は、初期温度と等しいかそれより高くなるわけである(ピストンと壁の摩擦がなかったとしても、である)。準静的とはその名の通り、静止していると見紛うほどゆっくり変化させるということである(遅くなっていく極限を取る)。なお、準静的という時には、ピストンと壁の摩擦は無視できるとする(ピストンは滑らかに動く)。摩擦がある場合は、摩擦熱によって温度がさらに上がることになる。

1つの断熱容器の場合に、変形速度によって終状態が異なるのだから、2つの容器をつなげた場合にも同様の結果になるはずである。上述の通りこの章では、プランクの原理()を足がかりに、性質()が成り立つこと、即ち、冒頭の問題の解が一意的に決まらないことの理解を目的とする。

3.1分子運動論によるプランクの原理の考察

仕切りの速度に終状態が依存することを理解するために、まず、断熱容器が1つだけの場合を考える。この容器は変形可能であるとし、変形は模式的にピストンで表すことにする(右図)。これを用いて、この節では、プランクの原理()の直感的な理解に努める。

なお、第1章で述べた様に、系がマクロ同値性を持つと仮定している。そうでない場合にはプランクの原理は破れることがある。例えば、容器内に薄い仕切りを入れ、一方に硝酸アンモニウム、もう一方に水をおいておく。ピストンの変化によって仕切りが破れて両者が混ざると、吸熱反応が起きて温度が下がる。(この系がマクロ同値性を持たないことは、同じエネルギーに対して、仕切りが破れている場合とそうでない場合の2種類の平衡状態が存在することから分かる。)

温度が最も低くなるのは、準静的な場合

プランクの原理を、分子運動論的に考えてみる。変形サイクルで温度が下げられないことを言うには、エネルギーを下げられないことを言えばよい。

まず、ピストンを「非常にゆっくり」動かして体積を だけ変化させたとき、エネルギーの変化 となる。「非常にゆっくり」とした変形を、準静変形という。

式()が成り立つのは、準静変形の場合のみである。実際、ピストンを素早く動かした場合、以下の理由により、準静的な場合よりも操作後の容器のエネルギーが大きくなる:

  • ピストンを引く場合。素早く引くと、分子がついて来ず、圧力 が急速に下がる。例えば、極端な場合、分子の速度よりも早くピストンを動かすと、圧力はゼロとなり になる。このため、空振りするような形となり、準静的な場合ほどはエネルギーが下がらない。
  • ピストンを押す場合。素早く押し込むほど、圧力 は大きくなる。気体に粘性がある場合、ピストンの周囲に気体が寄せ集まった状態になるため、 が大きくなる。また、粘性が無視できる場合であっても、流体力学編の第xx章で述べた様に、壁が受ける力は、分子と壁の相対速度の2乗に比例するので(衝突回数が相対速度に比例し、1度の衝突で与える運動量も相対速度に比例するため)、やはり は大きくなる。

準静的でないほうがエネルギーが上がるので、温度も上がることになる。よって、準静変形の場合に最も温度が低くなる。後は、準静的な変形サイクルを考えた時に、温度が元に戻ることを言えばよい。

準静変形において、容器の平衡状態は等エントロピー線上を移動する

準静的な場合、容器の状態は、式()に従って変化する。この微分方程式は2変数なので、常に可積分である(力学編の第15章)。即ち、ある変数 が存在して、式()は と書ける。あるいは、同じことだが となる。右辺の定数を与えた時、この方程式の解は、 空間上である曲線を描く。これを等エントロピー線(あるいは断熱曲線)という。また、 のことをエントロピーという。

エントロピー を決めるには、異なる等エントロピー線に異なる値を割り振ればよい。ただし、もちろんこれには非常に任意性がある。高エネルギー側でより大きな値を取るように定義するのが慣例であるが、それ以外については、現状では特に何でもよい。(後の章で、エントロピーの加法性を課すと、原点と定数倍を除いて一意的に決まることを見る。)参考までに、理想気体のエントロピーを以下の【3.1-注1】に示す。

【3.1-注1】理想気体のエントロピー

理想気体のエネルギー関数 および状態方程式 は、それぞれ と書ける は定数)。この理想気体のエントロピー は、以下のようになる: 表示と 表示)

導出

まず、 となる。次に、 は、 にエネルギー関数を代入すればよい。

積分因子の分だけ任意性がある。ここでは、次章で見るように、エントロピーが加法的になるようなものを採用している。また、原点の取り方に任意性がある。

準静的な変形サイクルでは、平衡状態が元に戻る

準静変形では、等エントロピー曲線上を動くのだから、準静変形サイクルでは等エントロピー曲線上を言って戻ってくるだけであり、体積 を元に戻せば、エネルギー も元に戻ることになる。 の多価関数になることはない。なぜなら傾き、即ち、式()の圧力 が有限の値だから。)マクロ同値性の仮定により平衡状態は だけに依存するので、平衡状態は完全に元に戻る。よって、温度も元に戻る。

以上により、準静的な変形サイクルでは温度が元に戻り、準静的でない場合には温度が上がることが分かる。これが、分子運動論による直感的なプランクの原理の理解である。

3.2冒頭の問題

プランクの原理を考える過程で、エントロピーという概念が現れた。これを考えると、冒頭の問題の解が一意的に決まらないことを説明できる。

断熱容器のエントロピーは、減らすことができない

プランクの原理は、断熱的な変形サイクルに関して、温度が下げられないというものであった。この性質は、エントロピーを使って と表現してもよい。この形で表せば、サイクルでない任意の場合にも成り立つ。即ち、断熱容器の状態が から に変わったとする時、エントロピーが増大していれば(=高温側に移動していれば)、逆向きに に戻すことは不可能である。エントロピーが等しければ、この操作は準静的なものであり、準静的に逆をたどることができる。ピストンを早く動かすと、容器の状態はこの等エントロピー線からずれる。一度ずれると、断熱容器の場合、この線上に戻すことはできない。

なお、エントロピーは、断熱的かつ準静的な過程で変化しない量として定義したが、準静的な過程は可逆でもあるので、可逆であればエントロピーが等しいともいえる。要するに、エントロピーは可逆性の判定にも使えるわけである。熱力学では、熱接触や気体の自由膨張など、不可逆な性質を扱う。可逆性を表す量が存在すると言ことは自然ではある。だとすれば、可逆性の尺度であるエントロピーを基礎において熱力学を展開することができるのではないか。特に、平衡状態はエントロピーが最大の状態として決定できそうである。これが、次章からの主題となる。

エントロピー変化は、仕切りの速度に依存する→終状態は一意に決まらない

ようやく冒頭の問題に戻る。断熱壁で仕切られた容器は、2つの断熱容器が接触したものとみなせる。従って、それぞれの容器のエントロピーは増えることはあっても、減ることはない。

ここで、両方の容器には、それぞれ平衡状態への緩和時間が異なる気体が入っているとする。容器1は素早く平衡状態になり、容器2は平衡状態に落ち着くまでにより時間がかかるとする。

さらに、仕切りは重く、ゆっくり動くとする。その場合、容器1は準静変形を受けているとみなせるので、エントロピーはほぼ保存する。(容器2のエントロピーは変化する。そうでないと、両方の容器のエントロピーが等しいという2つの条件が課されることになる。冒頭で述べた様に、足りない条件は1つだけなので、条件が多くなりすぎる。ただし、始状態=終状態のような場合は例外である。)

一方、仕切りが軽い場合、容器1についても等エントロピー線からずれてしまう。エントロピーが異なれば、平衡状態も異なるので、終状態は一意的には決まらず、仕切りが動く速さに依存することになる。